「カメラなんて撮れれば何でもいい」と知りつつ、なぜ僕たちは物欲に負け続けるのか

­「正直、写真はスマホでも綺麗に撮れる」

「レンズを1本増やしたところで、自分の写真が劇的に上手くなるわけじゃない」

「カメラなんて、要は目の前の景色を記録できれば何でもいいんだ」

頭では、100%理解しているんです。

理性はいつだって冷静に、そして正論を僕に突きつけてきます。

それなのに、なぜ僕たちのブラウザの履歴はカメラのレビュー記事で埋まり、気づけば夜な夜なショッピングサイトの「カートに入れる」ボタンの前で指を止めているのでしょうか。

今回は、頭では分かっているのに「カメラ沼・レンズ沼」にハマり、物欲に負け続けてしまう僕たちの切なくも愛おしい心理について語ってみたいと思います。

目次

買いたいのは「カメラ」ではなく「それを使う未来の自分」

新しいカメラやレンズのスペック表を見ているとき、僕たちが本当に見つめているのはセンサーサイズやF値の数字ではありません。

「このレンズを買ったら、毎週末の散歩がもっと楽しくなるんじゃないか」

「このカメラを持っていけば、次の旅行で誰も撮ったことがないような素晴らしい写真が撮れるんじゃないか」

そう、僕たちが買おうとしているのは機材そのものではなく、「そのカメラを手にして、日常をドラマチックに切り取っている未来の自分」という夢なのです。

「撮れれば何でもいい」というのは現実の冷めた視点。でも、僕たちはいつだってカメラを通して、まだ見ぬドラマチックな瞬間を期待してしまっています。

「スペックの差」に「表現の可能性」を夢見てしまう

「この新しいF1.2のレンズなら、今まで見たこともないようなトロトロのボケ感が手に入る」

「このAF性能なら、今まで逃していた一瞬を完璧に捉えられる」

冷静に考えれば、その「ボケ感の差」や「AFのコンマ数秒の差」に気づくのは、世界中で自分だけかもしれません。SNSにアップしてしまえば、スマホの小さな画面では誰もその違いなんて気にも留めないでしょう。

それでも、「この機材があれば、自分の表現の限界が一段上に押し上げられるかもしれない」という恐怖に近い期待感が、僕たちの理性を易々と破っていきます。

限界を作っているのは自分の腕であってカメラではない、と痛いほど分かっているからこそ、機材のせい(あるいは機材の力)にしたくなってしまうのかもしれません。

所有感という「触れるロマン」

カメラという道具には、不思議な魔力があります。

ズッシリとした金属の重み。

ダイヤルを回したときの「チチチ…」という心地よいクリック感。

シャッターを切った瞬間に手に伝わる小気味よい振動。

ただの「記録メディア」として割り切るには、カメラはあまりにも男心(そして道具好きの心)をくすぐるディテールに満ち溢れすぎています。

部屋の机の上に置いてある愛機を眺め、意味もなくファインダーを覗き、シャッターを1回切る。そのわずか数秒間に得られる「所有する満足感」は、合理性や効率という言葉では到底測れません。

敗北を重ねた先にある、小さな幸せ

「また買ってしまった…」

新しい箱が届き、厳重な梱包を解くとき、嬉しさと同時にほんの少しの罪悪感が胸をかすめます。

「また物欲に負けた」という敗北感です。

でも、新しい相棒を首から下げて街に飛び出し、ファインダー越しに光を探しているとき、僕たちは間違いなくワクワクしています。いつも通りの見慣れた散歩道が、少しだけ特別な場所に思えてくるのです。

「カメラなんて撮れれば何でもいい」

それはきっと真実です。

けれど、その無駄や遠回り、理性への敗北の先にある「写真を撮る理由」や「出かけるきっかけ」を、僕たちは買っているのかもしれません。

だから今日も、僕は自分に言い訳を用意しながら、新しい機材のページを開いてしまうのです。

この記事を書いた人

Leica M9とFUJIFILM X-Pro3を相棒に、日々の生活を切り取っています。
カタログのスペックや数字では語れない「写真を撮る楽しさ」 「機材の手に馴染むリアルな質感」 そんな一回り深い魅力を大切にしています。
機材の率直な使用感レビュー、 そして5人の子育てを通して見えた写真の記録を綴っていきます。
写真と暮らす毎日を覗いていただけたら嬉しいです。
noteとInstagramをメインに発信中。

コメント

コメントする

目次